カウンター・パーティ
ウィルスン・タッカー(Arthur Wilson Tucker, 1914年11月23日 - 2006年10月6日)はアメリカ合衆国のSF作家、ミステリ作家。イリノイ州生まれ。ウィルソン・タッカーとも表記される。 1930年代からはボブ・タッカー(Bob Tucker)としてSFファン活動を行なう。1950年代以降はプロ作家として活動。スペースオペラという語の考案者であると言われる。 長編SFでは時間ものの『静かな太陽の年』が代表作と見なされているほか、『長く大いなる沈黙』や「ギルバート・ナッシュ」シリーズなども有名。短編SFとしてはユーモアものの「観光案内」The Tourist Tradeと不条理ものの「ここは地球だ」This is Earthの二作が、日本では比較的よく知られている。ミステリの著書は一冊も邦訳がなされていない。 またタッカーがジョークとして、作中の脇役に友人たちの名前をよく使ったことから、その種の脇役の命名方法を「タッカリゼーション」と呼ぶ。 E・C・タブ(Edwin Charles Tubb; 1919年10月15日 - )は、イギリス生まれの小説家、SF作家。戦前からSFを書き始め、1951年に「ニュー・ワールズ」誌から短編"No Short Cuts"でデビュー。それ以降は複数のペンネームの下に、SF、ミステリなど大量の娯楽小説を執筆した。 日本ではデュマレスト・サーガ (The Dumarest Saga) の作者として知られている。 また、グレゴリイ・カーン (Gregory Kern) 名義の作品では、スペースオペラ「キャプテン・ケネディ」シリーズが知られている。 カレル・チャペック(Karel ?apek, 1890年1月9日 - 1938年12月25日)は、チェコの作家、劇作家、ジャーナリスト。兄はナチス・ドイツの強制収容所で死んだ画家・作家のヨゼフ・チャペック。 大戦間のチェコスロバキアで最も人気のあった国民的作家。戯曲『ロボット(R.U.R.)』において、チェコ語で「労働」を意味する単語 robota から ロボット という言葉を作ったと言われるが、彼自身は兄ヨゼフが作った言葉だと主張している。代表作『R.U.R.』『山椒魚戦争』はSFの古典的傑作とされている。小説、戯曲の他にも、文筆活動は童話、旅行記、文明評論など多岐に渡っている。 生涯 1890年、当時くりっく365 帝国のボへミア地方にあるマレー・スヴァトニョヴィツェという小さな町でチャペック家の三男として生まれた。 家族は父親と母親と姉とそして兄のヨゼフの五人家族で、父親は町の医者で当時地域の文化活動の中心を勤めていた人物だった。 1905年ボヘミア東部の中心都市にあるギムナジウムに進学するが、思想問題でやめなければならない事態に陥ったため、結婚していた姉を頼りモラヴィアの中心都市ブルノのチェコ語ギムナジウムへ進学する。 1909年ギムナジュウムを優等で卒業してカレル大学へ進学し哲学を専攻する。 1910年ベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現ベルリン大学)へ留学。 1911年ベルリンの大学を修了後に兄ヨゼフが居たパリのソル日経225 へ留学中に造形芸術家集団に参加。ヨゼフとともに戯曲「盗賊」を書く。 1914年第一次世界大戦が勃発。チャペックは鼻骨の怪我により従軍することは無かったが、カレルの友人たちは従軍した。 1915年帰国後、母校のカレル大学で博士号を得る。卒業後、しばらくは家庭教師の仕事をしていたが生計が立たず、実家から仕送りを受ける。 1916年チャペック兄弟として正式にデビュー。このころはCFD 詩の翻訳に熱心に取り組む。 同年、持病の脊椎のリューマチにより兵役免除。 1917年独立前に唯一発行が許されていた国民新聞に論説文を書く仕事に就く。 1920年、プラハのヴィノフラディ劇場の演劇人としての顔を持っていたチャペックは「R.U.R.」の脚本を書き上げる。このときにロボットとという言葉が生まれた。後の妻オルガ・シャインプフルゴヴァーとこのとき出会う。 1921年チェコスロバキア政府は共産主義運動を弾圧し、政府にあわせ次第に保守化していく国民新聞に不安を感じ民衆新聞(ナロード・リスティ)へ兄とともに移籍。その後、死ぬまで民衆新聞に在籍し続けた。 戯曲「FX の生活」(ヨゼフとともに合作)を出版。 1922年に「クラカチット」を新聞の連載小説として執筆開始。戯曲「マクロプラス事件」を書く。「絶対子工場」出版。この年、当時の大統領であるトマーシュ・マサリクと面識を持つ。 1924年「クラカチット」が出版。同年、国家賞受賞。 イギリスペンクラブの招待により英国大博覧会取材をかねてイギリスへ、この年の秋頃から多方面から知識人を自宅に招いて討論する『金曜会』を開くようになる。 1925年ペンクラブのプラハ支部設立準備委員になる。翌月には会長に選ばれる。ヨゼフと再び合作、戯曲「創造者アダム」を制作開始する。 1926年「創造者アダム」完成。「金曜会」にマサリク大統領が初めて参加する。この年の大晦日に行われたパーティーで行われた余興によりマスコミに論争が起きたが後に解決。 1933年「ダーシェンカ、子犬の生活」「ホルドゥバル」を出版。「流れ星」を執筆。チェコスロヴァキア・ペンクラブ会長辞任。 1936年「山椒魚戦争」を出版。オルガ・シャインプフルゴヴァーと結婚。ノルウェーの新聞雑誌に、ノーベル賞を彼にという提案が初めて出される。 1938年ルイ・アラゴンの提唱の元、外国為替 の11人の作家がノーベル賞を与えようとほかの作家たちに呼びかけをするが本人は辞退する。同じころ右翼系新聞がバッシングを展開する。 12月中旬、嵐で荒れた庭の手入れをしたことが原因で風邪をひき、一時回復するものの19日に悪化。 12月25日の未明に肺炎により死去。最後のコラムが民衆新聞に載る。小説「作曲家フォルティーンの生涯と作品」の草稿が未完で残る。現在、ヴィシェフラト墓地に埋葬される。 ロボットと言う言葉を生み出したことに少々苦い思いを抱いていたようで、「歯車、光電池、その他諸々の怪しげな機械の部品を体内に詰め込んだブリキ人形を、世界に送り出すつもりは作者にはなかった」と述べている。 小説『山椒魚戦争』と戯曲『母』ではアドルフ・ヒトラーとナチズムを痛烈に批判している。そためにチャペックはゲシュタポ内では『チェコ第二の敵』として危険視される。1938年に彼は死亡するが、これを知らなかったゲシュタポは1939年3月15日ドイツがプラハを占領した際に、いち早く彼を逮捕するためにチャペック邸に乗り込んだ。 ニューヨーク州ポート・ジェファーソン生まれ。両親は中国からの移民である。小学校6年生の時にアイザック・アシモフやアーサー・C・クラークによるSF小説を好んで読みはじめ、自分でも書くようになった。大学時代にはジーン・ウルフやジョン・クロウリー(英:John Crowley)に影響を受け、現在も尊敬しているという。グレッグ・イーガンやカレン・ジョイ・ファウラー(英:Karen Joy Fowler)も好きな作家として挙げている。ブラウン大学では当初、物理学とコンピュータ科学を学んでいたが、最終的にコンピュータ科学に絞り1989年に卒業する。 作家活動 大学を卒業した年に、SFやファンタジーの新人作家を対象にした6週間の講座、クラリオン・ワークショップに参加した。チャンはこの時までSF小説が好きな人間に会ったことがなく、また雑誌や出版社に自分の作品を受け入れてもらえず挫折しかけていたため、自分や自分の作品を受け入れてくれるワークショップは「見知らぬ家族に再会したような気持ち」だったという。 翌年の1990年に短編『バビロンの塔』(Tower of Babylon)でデビュー、同年のネビュラ賞短編小説部門で受賞する。しかし次の作品の発表まで7年近く経っており、デビュー作でいきなりネビュラ賞を取ったことでかなりのプレッシャーがあったことを本人も認めている。テクニカル・ライターの仕事を持ち長時間勤務だったこともあり、そちらに本腰を入れていたと語っている。 1999年の短編『あなたの人生の物語』(Story of Your Life)で1999年ネビュラ賞中編小説部門受賞、シオドア・スタージョン記念賞受賞。2001年の短編『地獄とは神の不在なり』(Hell Is the Absence of God)で2002年ネビュラ賞・ヒューゴー賞短編小説部門ダブル受賞、2004年星雲賞海外短編部門受賞。 2007年8月現在、短編・中編合わせて10作を発表したのみの、寡作な作家である。単行本は、日本語訳され、ネビュラ賞受賞3作など8作が収録されている。短編集『あなたの人生の物語』(Stories of Your Life, and Others)のほかに、2005年に『ネイチャー』に掲載された超短編と2007年に発行された短編がある(下記の著作リスト参照)。 現在、ワシントン州シアトル近郊のベルビュー(英:Bellevue)に住み、フリーランスのテクニカル・ライターとして働いている。小説にするだけの良いアイディアが浮かんだら短い話を書くつもりだと語っている。 2007年に日本で初めて世界SF大会(ワールドコン)が開催され、ゲスト作家の一人としてチャンも来日した。同行したエレン・ダトロウ(英:Ellen Datlow)などと共に東京宝塚劇場で宙組公演の『バレンシアの熱い花』と『宙 FANTASISTA!!』を鑑賞した。